陣屋の立地構造

立地

 額田郡幸田町芦谷は南の三ヶ根山系(標高326m)と東の遠望峰山系(標高443m)にはさまれたところにある。
 芦谷の集落は、遠望峰山系の西すその台地の西南端に位置する。
 台地の西には広田川、南には前の川が流れている。
 北西にはかつて菱池という広大な沼が広がっていて、広田川と矢作古川を通って三河湾への舟運があった。江戸時代、集落の中心には、蒲郡から岡崎城下へ向かう道(岡崎道、国道248号線に相当)から分かれた東海道藤川宿や美合へ向かう道(藤川道、県道480号線に相当)が屈曲しながら通っていた。
 内藤家に2種類伝わる「慶長九年(1604)甲辰年九月 居屋敷略図面寫置」や元禄16年(1703)、明和7年(1770)、天明3年(1783)の絵図によると、内藤家住宅は集落の南端に位置し、藤川道が岡崎道から分かれたところから400mほどいって前の川を渡り、台地の坂を上って右へ折れたところにある。
 つまり、内藤家住宅は台地の縁で、芦谷の集落の入口に位置している。
慶長9年の絵図には、現在の内藤家の場所は「中屋敷内藤與左衛門重政」と記され、「門前」の地名がある。また、西隣には「首長屋敷跡 長大夫 御藏」とある、芦谷内藤氏が芦谷村に移り住んだ当初は、こちらが本宅であったようである。また、東側の街道を挟んだところに「與左衛門外屋敷」とあり、ここも内藤家の屋敷地であったようである。
 芦谷内藤家は、永正15年(1518)芦谷に移ったと言われているが、中世の領主の居館は丘陵や台地上の平坦地に立地することが一般的に見られ、土塁や柵で簡単に囲っただけのものであったという。現在の内藤家の立地や屋敷地を見ても、中世の領主の屋敷が陣屋に移行した例として見ることができる。

敷地

 内藤家住宅の敷地はやや南北に細長い不整形な形をしている。屋敷地の周囲は屋敷林で囲われている。特に北側と西側は冬の季節風を防ぐためか、屋敷林になっている。南半分に主屋を中心に長屋門、倉庫などの付属建物が点在する。
 屋敷地は街道から奥まったところにある。街道からは南側と東側の2箇所から入る。南側の街道からの通路には、入ってすぐ正面に石積みがあり、右手に食い違いになっている。
 食い違いからさらに通路を60mほど行ったところに長屋門がある。東側の街道からは通路を50m程行ったところで右手に食い違いになっていて、さらに南側の堀、北側の細長い道具小屋に挟まれて進むと長屋門の前に出る。長屋門の西側に倉庫3棟、南側に車庫、東側に通用門を挟んで昭和初期に建てられた道具小屋がある。
 主屋の南側には庭園があり、長屋門から主屋の玄関までの通路とは、塀と露地門によって仕切られている。庭園は明治期に作り直したものという。ただ、庭にかかる税金を逃れるため、灯篭などをその後、撤去したという。
主屋の東側には井戸屋形、外便所、倉庫(東西1間半、南北2間)がある。さらに東には離れの住宅がある。北側には土蔵が2棟(西側:東西3間、南北2間、正面に半間の土庇付き、東側:東西3間、南北2間)がある。
 長屋門は中央に入口があり、西側は倉、東側は居室になっている。長屋門には2枚の棟礼が伝わっている。1枚は「永正拾五年」(1518)、もう1枚は「寛永元年」(1624)の年紀がある。「芦谷内藤家系譜書」の芦谷内藤家十三代順治(勝政)の項に「居宅門一棟政重天文年中(1532~1555)建立寛永二年(1625)乙丑十一月十五日再三修覆 修理明治二十五年(1892)十一月十五日」とある。棟礼については記載されている人物や記載内容などから同時代に書かれたものかは疑問が残るが、初代勝重(政重)が芦谷に16世紀の前半に移り住んだ時に長屋門が建てられ、寛永年間に長屋門を再達したようである。明治期には外壁や屋根を修理している。それまでは茅葺きであったが、瓦葺きにするため、菱池の舟運を使って瓦を運んできたという。
 主屋の仏間の西側に1間の間隔をあけて南端と繋がる形で、南北5間、東西3間ほどの建物が建てられる広さで、高さ70m程の石積みが残っている。ここは、昭和初期に十四代目安種(政重)の隠居邸屋を建てようとした場所で、実際には建てられなかったという。
 さらに敷地の北西隅に屋敷神(神明社)を祀る祠がある。この祠は高さ約80cmの石積みの上に東に面して建ち、間口約3尺、奥行約4尺である。祠の正面に、高さ40cm程の石積みが両側にある参道が通っている。
敷地の中には石積みや土塁や堀跡が所々に残っている。
 南側からの入口通路の東側境界は隣地が高いため、土留の石積みが残る。敷地の北東には高さ1m程の土塁が残る。また、主屋の北側に高さ80cm程の石積みの仕切りが東西に延びている。現在は倉を建てたために東半分が失われているが、東側の土塁まで続いていたと思われる。堀跡は道具小屋の南や屋敷神の北側に残っている。
 内藤家住宅の屋敷構えは、食い違いのある通路があることや、石積み、土塁、堀跡が残るなど、武家屋敷の特徴を示していると考えられる。

屋敷入口

間取リ

 主屋は間口6間、奥行3間半、切妻造り、桟瓦葺き建物で、四方に桟瓦葺きの下屋が付いている。間取りは整形四間取りで、桁行方向は2間ごとに、梁間方向は2間と1間半に分かれて間仕切りが入
る単純な構成となっている。
 部屋は東から、土間、「だいどころ」、「おかって」、「おでい」、「座敷」が配されている(部屋名はこの地方の一般的な呼び方による)。さらに明治期に増築された仏間と「8畳間」が接続する。

土間

土間

 床はタタキで、当初は北側も全面タタキであったと思われる。かつては北寄りにかまどがあった。壁は土壁漆喰仕上げであるが、天井裏は土もの仕上げであり、梁下も同様であったと思われる。天井は現在、竿縁天井が張ってあるが、天井裏の梁や束、貫は相当に煤けており、「だいどころ」「おかって」境は屋根まで土壁が立ち上がっているので、当初は吹き抜けであったと思われる。大戸の脇に藁打ち石があり、作業場でもあったようである。
 入口の大戸は昭和になって取り外された。元は潜り戸があり、東側へ引き込んでいたという。入口の両脇の柱に大戸の枠や敷居の痕跡が残る。

だいどころ

だいどころ

 8畳の広さで、竿縁天井を張る。土間と「おかって」境は指物を使わず、梁下に鴨居を束で吊っている。縁側境と「おでい」境は指物が使われているが、縁側境の指物は部材の状況から当初材ではない。また、「おでい」境の指物は上面が野物のようになっている。

おかって

おかって

 6畳相当の広さで床が板敷になっている。竿縁天井を張る。土間境は「だいどころ」同様に指物は使用していない。廊下境も指物はなく、鴨居を束で吊っている。「座敷」境は指物を使用し三本引きとなって3枚の板戸をはめている。この板戸には防犯用に引き込みができないようにする金具が「座敷」側に付いている。唯一、当初の柱間装置が残っているところと考えられる。

おでい

おでい

 8畳の広さで、根太天井となる。縁側境は指物が使われているが、「だいどころ」同様、当初材ではない。「座敷」境は指物が使われており、2本の溝と「だいどころ」側に半分長さでやや幅の広い溝がもう一本、彫ってある。「廊下」境は仏間の増築のため当初の姿は失われている。根太天井の根太を中央で支える梁は南北に入っており、手斧仕上げの痕が見られる。

座敷

座敷

 6畳の広さで、竿縁天井を張る。西面に床の間がある。縁側境は「おかって」同様、指物ではなく、鴨居を束で吊っている。床の間は平成12年の改修の時に解体され、床柱や床板が改造された。地板は元は天井板に使われていた板材という。床の間の正面の壁は明治期の増築の時に改造されたもので、窓が開いており、鉄の丸棒が縦格子状に人っている。

屋根裏部屋

 「おでい」「座敷」の上は屋根裏部屋となっている。「おでい」の南東隅から階段を登り、天井に設けられている引き込み戸から入る。屋根裏部屋は南と北で建具により仕切られている。南側の壁に明り取りに格子窓が開いている。柱などの痕跡を見ると、当初から屋根裏部屋として作られていたようである。

仏間

 東から4畳の「廊下」、6畳の「次の間」、4畳相当の「仏間」が東西方向に並ぶ。
 「仏間」の床は「次の間」より框で一段高くなっている。「仏間」の西側は仏壇を置くために奥の4畳分が板敷になっていて、奥の半間が一段高くなっている。竿縁天井を貼り、長押をまわし、釘隠しを打つ。明治期に増築された部分であるが、住宅の中ではもっとも格の高い造りとなっている。

8畳間

 明治11年(1678)に増築したと思われる部分で、増築当初は北側に縁側、西側に押入れがあった。後に改装され、板敷となり、縁側は東側に流し台が置かれ、西側は便所となった。「座敷」境の引違い戸も壁に改造された。柱が当初のまま残っているが、面皮柱で、部屋全体が当初は数寄屋風であったようである。

外観

昭和初期の母屋

 切妻造り桟瓦葺きで、下屋の屋根も桟瓦葺きである。痕跡や昭和初期の写真を見ると、当初は四周に下屋が回っていたようである。南側、北側の壁は真壁漆喰仕上げで、腰は下見板張りである。西の妻側は板壁で、横使いの押縁で押さえる。東の妻側が平成12年の改修で下見板張りとなった。
 南側の下屋の上の小壁には3箇所、窓がある。東端に横連子窓があり、内側に突き上げ窓が付いていたという。他の2箇所は引き込みの板戸となっている。