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幸田移住500周年で記念誌 芦谷内藤家が町に寄贈

東海愛知新聞 平成30年12月28日掲載

 500年前に額田郡芦谷村(現幸田町芦谷)に移住した内藤勝重とその妻で徳川家康の乳母だった松の子孫に当たる内藤茂雄さん(88)(幸田町芦谷)が26日、芦谷内藤家の移住五百周年記念誌を100部自費出版した。
 記念誌はA5判カラー刷りで全66頁。
 芦谷内藤家の系譜や人物、現存する旗本陣屋の詳細などが記録されており、16代当主の内藤さんが監修、息子の昭雄さん(53)が編集などを担当した。
 27日には内藤さんらが町役場を訪れ、成瀬敦町長に出版を報告。「家康の乳母のお松がどのように亡くなったかなど、歴史上埋もれていた事実が資料によって確認できた。これをきっかけに、皆さんに知ってもらえれば」と話し、記念誌一部を寄贈した。
 今後は、旗本陣屋の一般公開や登録有形文化財への登録なども検討するという。

天下人の実像 家康公生誕の物語 ⑨乳母「お松」

おかざき塾歴史教育講師 市橋章男
東海愛知新聞 平成22年4月9日掲載

 一昨年、幸田町芦谷の内藤茂雄氏から一冊の歴史書「ある三河武士の系譜と人脈」を頂いた。ご自身が丹念に史料を収集され、内藤家の系譜などについてまとめられた貴重なものである。その中に興味深い事績が記されていた。「松平竹千代乳母『松』について」である(史料中、「松」「まつ」両方の表記が見られるが、本文では「松」に統一させていただきました)。
 人質として熱田の地に送られた竹千代に、異変が起きた。ほうそう(天然痘)に罹ったのである。高熱を発し、二人に一人が命を落とすという非常に恐ろしい病気であった。この時、竹千代に従い熱田に随行していた乳母が「お松」である。お松は芦谷村の内藤勝重(政重ともいう)の妻であったが、竹千代誕生の時から乳母として召し出されていた。
「若君、お苦しゅうございますか。この病、他人にうつってお治りになるのであれば、どうぞこの松にうつらせ給え。わが身の命に代えて若君をお守り下され」
 危篤状態で息も絶え絶えの竹千代を前にして、お松は目分が身代わりになることを神仏に誓い絶食する。必死の看病と熱田明神への毎日の祈りが通じたのか、やがて竹干代の高熱も峠を越え、少しずつ元気を取り戻した。
 「すっかりお元気になられて、本当にようございました。熱田の明神様へお礼を申し上げたら、松は明神様や御仏とのお約束を果たして参ります」
 まだ幼い竹千代が、何事も無かったように、きょとんとお松を見つめている。お松は深々と頭を下げると、静かに微笑みながらその場を去った。そして、その日の内に自害をして果てたのである。享年二十五歳。お松の墓は芦谷の内藤家の墓地(現在、幸田文化公園入りロ西)に建てられた。平成十九年には同所に顕彰碑が建てられ、お松の事績を後世に伝えている。(以下略)

特捜!板東リサーチ

平成20年(2008)2月21日放送
CBCテレビの番組(そこが知りたい 特捜!板東リサーチ)の収録のため、板東英二さんと久本朋子さんが平成20年2月4日に来訪。同月21日に5分ほど放映されました。



顕彰碑除幕式

平成20年(2008)1月14日 中日新聞朝刊掲載
家康の乳母まつ顕彰碑を建立
幸田で除幕式法要

 德川家康の乳母まつの顕彰碑が幸田町芦谷、芦谷内藤家の墓地に建てられ、除幕式と法要が十三日、営まれた。顕彰碑は、江戸時代に旗本として芦谷一帯を治めた、芦谷内藤家の後継者・内藤茂雄さん(七八)が建立。約百九十万円をかけ、高さ二・二メートル、幅一・五メートルの黒御影石に、まつの数奇な運命を刻んだ。
 まつは三河国大平(現岡崎市)の生まれで、同家初代の新右衛門勝重に嫁ぎ、長男を出産。乳母として召し出された。
 六歳になった竹千代が今川義元の人質となって静岡に向かう途中、天然痘を発症。まつは三七日間絶食して祈り続け、竹千代が快方に向かうと、神に感謝するため自害し、二十五歳の短い生涯を閉じたという。除幕式には、まつの子孫や同町の近藤徳光町長ら地域の関係者ら四十人が出席し、僧の読経が続く中で焼香。内藤さんは「内藤家だけでなく、德川家、そして、日本の礎を築いたまつの一生がいつまでも語り継がれるように」と願った。

時の探訪

平成19年(2007)12月収録

CBCテレビの番組(時の探訪)の収録のため、国の重要無形民俗文化財(平成7年12月指定)の三河万歳が来訪。翌年1月31日に土間での演舞の様子が放映されました。





水戸藩士墓誌建立

新いばらき新聞 平成10年(1998)2月6日掲載
三河出身の水戸藩士供養
390年ぶりに花手向け
子孫が墓誌建て改葬

 水戸藩草創期に、家康の命令で初代藩主頼房に仕え、光圀の守役や三代綱条(つなえだ)の用人を務めた、三河(愛知県)出身の水戸藩士三人の墓が、このほど郷里愛知県芦谷(あしのや)の内藤家子孫の手で水戸市大串の善徳寺跡に改葬され、新しい墓誌が建てられた。内藤氏が郷里を出たのは、家康が駿府(静岡)に移る慶長十二年(一六〇七年)以降。約三百九十年ぶりに先祖の墓に花を手向けた末裔の茂雄氏(六八)は、「心に掛かっていた思いが解消した」と語っている。
 改葬されたのは、幼少期の光圀の守役(養育係)や持弓頭、書院番頭を務めた内藤儀左衛門高康(禄高六百石、生国三河、明暦三年没)と、その弟で光圀に仕えた半之丞政成(同三百石、生国同、慶安三年没)、高康の五男で三代綱条用人の宗次郎高致(同三百石、元禄九年没)の三藩士。
 三河の内藤氏は、もと鎌倉幕府の御家人といわれ、応仁(一四六七~六八年)のころ三河に進出したという。
 芦谷内藤氏の初代は、高康の祖父、内藤新右衛門勝重。その妻松女は、高康の父となる与左衛門重政を産んだ翌天文十一年(一五四二年)竹千代時代の家康の乳母に召され、竹千代の庖瘡(ほうそう)平癒祈願に、熱田で絶食し自らの命を断った女性。
 松女の長男与左衛門重政には四人の息子がおり、今回水戸で改葬された儀左衛門高康はその三男、半之丞政成は四男。
 重政の長男左平政勝は御三家尾張に出仕し、二男左七政俊は旗本に昇格。政俊の甥半十郎直政は芦谷の家督を継ぎ、芦谷知行所代官を務めた。
 三男の儀左衛門、四男半之丞は、家康から水戸德川家の初代当主となる頼房(家康の十一男)に仕えることを命じられ、元和二年(一六一六年)までは駿府で、その後、水戸藩江戸屋敷または水戸で仕えたといわれる。
 江戸期以前から強力な家臣団を抱える外様大名や譜代大名と違って、家康によって新しく作られた水戸藩は、各地から武士を集めて徐々に家臣団を形成していった。
 家臣の系譜を集成した「水府系纂」によると、水戸藩の家臣登用は江戸初期の慶長・元和・寛永期に集中している。
 光圀が産まれた水戸柵町の藩士屋敷の主、三木之次(ゆきつぐ)が登用されたのは慶長九年で、三木は儀左衛門と同じ三河出身の守役。慶長期(一五九六~一六一五年)の登用は百七十六人。
 初代頼房が藩主に就任した元和(一六一五~二四年)年間は慶長期より多い百八十七人が登用され、その半数は駿府や、歴代藩主が生活の本拠とした江戸(定府制)で仕えた。
 儀左衛門たちの登用時期は不詳。本県でつくば科学万博が開かれた八五年に水戸を訪れ、旧常盤村教育委員会への問い合わせで、荒れた善徳寺跡地の墓石に先祖の法名を確認した内藤茂雄氏は、
 「江戸の内藤家菩提寺の過去帳には四男半之丞の名前があり、あるいは江戸屋敷に務め、江戸で没したかもしれない。大串には「德川実記」に弓の名人と記された儀左衛門の大きな知行地があったので、墓石や石塔が建てられたのかも」と推測している。
 なお、善徳寺跡の内藤氏墓石わきには、同じ三河出身で、二代将軍秀忠や駿河大納言忠長に仕え、のち寛永期(一六二四~四四年)に頼房に仕え水戸藩次席家老となる、松平正朝(壱岐守)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(水戸市指定文化財)がある。

むかし舞岡(五十二)江戸時代の舞岡の殿様

平成9年10月20日 まいおか新聞
横浜市戸塚区南舞岡 清水成剛

 天正十八年(一五九〇)小田原北条氏が亡び、德川家康が江戸に入った時に家康は旧領三河を主とした家臣たちを引き連れて来て戸塚の大半の各村にも地頭として封じた。舞岡にも旗本クラスの旧三河武士が送り込まれて来た訳だが、いつも一人の地頭が舞岡村全部を一括支配したではなく、むしろ舞岡を分割し複数の領主が支配することが多かった。これを相給と言い、その分割数を二給、三給などと数えた。村内に幕府直轄領もあったり、地頭やその知行高も変わったり少し煩雑なので、江戸時代の舞岡の変遷を図示してみた。
 家康の関東入国の際それまでの相模武士はことごとく排され、戸塚地区で地頭に残ったのは中田村(現泉区中田町)の石巻(いしのまき)五太夫康敬(ごだゆうやすたか)一人だけであった。舞岡は翌天正十九年に、三河出身の旗本蜂屋定頼に四百石が与えられた。鎌倉郡代官彦坂元正の同年の検地によると舞岡村の石高は五百二十五石五斗とあるからその差百二十五石余は幕府領であった。すなわち舞岡の江戸時代の支配は幕府領もあった二給で始まった。その後別の地頭も三回ほど送り込まれ、蜂屋氏は一部石高を削られたりしながらも主として蜂屋氏八代が舞岡を二百二十年間支配することになる。
 元和元年に矢張り三河武士の内藤政俊(=左七正綱)も舞岡に采地(さいち)を与えられた。さらにその十年後の寛永二年には伊丹(いたみ)之信(ゆきのぶ)も舞岡に采地を得たが伊丹氏は寛永十九年息子の不祥事により十七年で改易され、四年後の正保三年(一六四六)に三河出身の大草正次が入った。蜂屋氏が入ってからそれまでの五十五年間に領主が四氏登場するという目まぐるしい変化であったが大草氏以降江戸後期の文化八年(一八一一)までの百六十五年間は幕府領も含めて四給体制が続いた。この間の四領主の石高の記録が年代によって種々異同があって単純ではないが江戸後期享和三年(一八〇三)の「助郷村村高仕訳書上帳」によると、蜂屋氏二百七十五石、内藤氏百三十石、大草氏九十四石、幕府領三十八石で村高合計五百三十七石であった。
 幕末前の開国問題で会津藩が江戸湾防備に当たった時、舞岡村その他では文化八年から十年間会津藩の預所つまり会津藩領となった。続いて文政四年(一八二一)に舞岡村全体が再び蜷川(にながわ)親文(ちかぶん)の旗本領となり、明治まで四十七年間続いた。
 江戸時代の初めから知行した蜂屋・内藤の二氏は多分舞岡に陣屋を構えたであろう。この二氏は当時の舞岡の殿様として現在も一部その名残を残し、且つ地元から今でも或る親しみも持たれている様だ。
 二氏とも舞岡以外にも知行地があった。蜂屋氏は全部で千二百石と言われるから舞岡はその二分の一以下に過ぎなかった。しかし舞岡には初代定頼の墓が残されて居り、また舞岡八幡宮を厚く尊崇保護した様子が八幡宮に残された何点かの棟札や文書等で窺うこと出来、蜂屋氏の舞岡への影響は深かったといえよう。墓は宮根九百六十八近藤功さんの屋敷の奥の竹林の中に現存するが、正しくは享保十四年の百回忌に四代定尚が建てた供養碑である。「寛政重修諸家譜」には、「年七十一、舞岡の采地に葬る」とあり、「神奈川県史」には、「墓所臨済宗長福寺」とある。現在宮根の墓は普段近藤さんが供養されている様だ。
 内藤氏については、筆者は今回長福寺の墓地内に三代にわたる墓碑が目立たずに立っているのを初めて知って驚いた。
 三基の墓碑に刻まれた法名と没年から確認できた。左から政房、中央が初代政俊、右が二代政忠である。この墓は十年少し前まで立野の古墓地にあり、殿様の墓と呼ばれながらもその由緒をよく知る人は少なかったようだ。「寛政重修諸家譜」の政俊の条に「寛文四年死す、年七十八、牛込の法正寺に葬る、のち代々葬地とす」とあり、二ケ所に墓があることになる。立野にあった時墓は稲荷谷の福寿実さん方で供養されていた様だ。一方、長福寺同墓地内の西反対側の金子好雄さんの墓地に「三河内藤新五右衛門尉藤原朝臣将行」と刻まれた延宝六年の墓碑がある。系図で調べると将行は初代政俊の従弟である。多分領主家の一族も舞岡にいたのであろう。将行の墓の方が大きく一見立派に見える。近世舞岡のルーツは三河にありと言えそうだ。(舞太郎)

むかし舞岡(五十七)江戸期舞岡三領主の領地と内藤氏陣屋跡

平成10年12月20日 まいおか新聞
横浜市戸塚区南舞岡 清水成剛

 先日、江戸時代舞岡村領主の一人内藤氏子孫の方が突然、舞岡を初めて訪ねて来られた。その方は現在愛知県幸田町にお住いの内藤茂雄氏(六八)である。江戸時代後期の舞岡知行替え後、内藤氏本貫(ほんがん)の地(幸田町芦谷)で内藤家の遺跡(ゆいせき)を守っておられる十六代目当主である。
 江戸後期の文化八年(一八一一)会津藩領になるまで舞岡には蜂屋氏、内藤氏、大草氏の三領主が居たことはこの「むかし舞岡(五十二)」等ですでに書いた。しかし、具体的に三領主が舞岡をどのように分割支配したか、また陣屋を構えたとすれば、それが何処であったか等は筆者には皆目分からなかった。内藤氏来訪を機に地元の方や内藤氏の話をもとに再度調べてみた。
 その結果、当時三領主は次の様に分割領有していたことを知った。
 蜂屋氏→舞岡上分(かみぶん)
 内藤氏→舞岡桜堂
 大草氏→舞岡下分(しもぶん)
 このことはすでに昭和四年の通称”公図”(地番反別入地図 鎌倉郡川上村編」)の地勢及沿革・舞岡の項に書かれていたのを筆者は見落としていたものである。
 内藤氏の陣屋跡については、立野に通称”内藤氏の御林”があったことは知られており、その谷戸に屋敷があったことも地元の古い人は聞いていたという。平成二年に長福寺に移された旗本内藤家三代の墓もその一画(北川山の中腹、三一七五番地付近)にあったのである。この谷戸が内藤氏の陣屋があった所に違いない。
 旗本舞岡内藤氏は七代百九十六年の間立野のこの谷戸を陣屋として桜堂二十数戸を知行したのであろう。旗本は江戸居住が義務であったから実際にはその代官或いは名主級が執行したのであろう。
 内藤氏はもと鎌倉幕府の御家人で、応仁の頃三河に進出したといわれ、三河国額田郡芦谷郷を本拠地とした。内藤氏は初代を室町後期の新右衛門勝重とし、その三代正綱(=政俊。次男)は、家康に関東入国前から重用された。江戸幕府の開府後慶長十七年芦谷村二百四十石を知行地とする旗本となり、三年後の元和元年(一六一五)に舞岡村一四三石五斗、赤羽根村(現在茅ケ崎市内)二十一石が加増され計四百五石となった。正綱は御弓矢鎗奉行を務め、布衣(ほい)の着用を許された。なお、内藤家家系図によると、旗本舞岡初代の正綱(政俊)は芦谷の内藤家四代目を甥の直政に継がせている。
 兄の政勝(=政久)は御三家尾張藩の藩士になり、弟の高次(=政勝、高康)は家康の命で禄高六百石の水戸藩士として光圀の幼時の守役なり、持弓頭、書院番頭も務めた。また、正綱の祖母松は家康(幼名竹千代)の乳母として岡崎城に出仕した。竹千代が重い天然痘にかかった時、乳母の松は断食して熱田神社に平癒祈願し、そのかいあって竹千代は快癒したので松は自ら命を絶ったという。この様に内藤氏は德川家の近くに仕えたことがうかがえる。
 かつて当欄(五十二)で書いた金子さんの墓地に墓がある内藤新右衛門将行(まさゆき)は寛政譜により初代正綱の従弟と書いたが、茂雄氏の話では正綱の甥のはずであるという。将行は代官を務めたかも知れない。
 因みに初代正綱の没年は寛文四年であるから、桜堂交差点中古車店角にある舞岡最古の寛文二年の庚申塔は初代正綱の時代に造立されたものである。(舞太郎)