三河内藤家秘話

鳥羽藩にもあったもう一つの松ノ廊下
藩主が宿敵を刺殺
江戸増上寺 将軍家綱の大法会の場で
岩田貞雄氏 文化財調査委員が市史で発表

平成5年3月10日 東海けいざい


 忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩の江戸城松ノ廊下における刃傷事件。その21年前に志摩鳥羽藩でも藩主が江戸の芝増上寺で刃傷のうえ切腹、お家断絶という悲劇があったことは、あまり知られていなかった。が、昨年出版された鳥羽市史の中に「芝増上寺刃傷事件」として取り上げられ、脚光を浴びた。鳥羽市文化財調査委員を務める岩田貞雄さん(58)が郷土史の記述と自ら集めた資料に基づき、分かりやすくまとめている。志摩鳥羽藩主の刃傷事件は最近のべストセラー、池宮彰一郎さんの「四十七人の刺客」でも一部取り上げられている。
 当時の鳥羽藩主は内藤和泉守忠勝。相手はかねてより犬猿の仲で、江戸の上屋敷が隣合っていた丹後宮津藩主、永井信濃守尚長。事件は延宝8年(1680)6月26日、江戸・芝増上寺で営まれた四代将軍家綱の大法会の場で起きた。
 法会の当日、和泉守は僧侶の、信濃守は大名たちの世話役を仰せ付けられ、双方とも出入り口門の警固だけでよいというさたがあった。その後、老中筆頭酒井雅楽頭から食事の用意もするようにと信濃守に書状が届けられた。ところが信濃守はこれを握りつぶし、食事の用意ができない和泉守は面目をつぶした。
 「永井と酒井雅楽頭は旧知の間柄。それに内藤はキリシタン大名で、当時すでにキリシタンは禁令だったことから和泉守は二人の策略にはまったのではないか」と岩田さんはみている。
 法会の後、和泉守は、役目を果たして居眠りをしていた永井に切りかかり、とどめを刺した。翌日和泉守は芝久保青竜寺で切腹、領地鳥羽は没収、内藤家はわずか三代で断絶した。この史実が今までクローズアップされなかったことを岩田さんは「忠臣蔵の仇討ちのような物語性がなかったことが大きい」と話している。
 鳥羽城二の丸内にあった西念寺(鳥羽市鳥羽)に内藤家の墓が残されている。住職の筧宏順さん(55)によると、地元でも刃傷事件はもちろん内藤家墓所の存在を知らない人がほとんど。
 墓所は広い墓地を登り切ったところにあり、夏は雑草が生い茂って、せっかく訪れても捜し当てることは難しいという。
 毎年、命日には数人が参拝しているのを見かけるといい、筧住職は系図を見ながら「"忠臣蔵"の浅野内匠頭は和泉守の実姉の子で、甥に当たります。奇妙な因縁というか、ただの偶然といえばそれまでかもしれませんが」と話していた。