竹千代の乳母まつ物語

愛知県文化財指導員 水野武至
東海愛知新聞 平成19年(2007)5月8日掲載

勝重(政重)の妻 まつ

 わたしは、松平竹千代様の乳母、松(まつ)と申す者でございます。
わたしは、多門縫殿輔重信の姉でございます。わたしは武士の家に生まれ、何不自由なく育てられるとともに、武士の娘として厳しく育てられました。
 わたしは縁あって、額田の郡は芦谷の、内藤新右衛門勝重(政重)の室(奥方)に迎えられました。そして間もなく天文10(1541)年、息子の與左衛門(重政)をもうけました。

竹千代様の乳母にお召

 ところが、新右衛門政重の室としての幸せな時は短く、天文11年、松平竹千代様の乳母として、竹千代様の側近くに仕えるようになりました。
 竹千代様は天文11年12月26日、三河岡崎城主松平広忠様の嫡男(長男)として、岡崎城内板谷の邸でお生まれになりました。お父さんの松平広忠様は17歳、お母さんの於大様は15歳だったと聞いています。
 天文13年、お母さんのお父さん、刈谷城主であった水野忠政さんが亡くなると、兄の信元さんは、これまで仕えてきた駿河の今川義元さんに背いて尾張の織田信秀さんに仕えるようになりました。どうしても今川義元さんの庇護が必要であった広忠様は、泣く泣く於大の方を離別なさいました。
 竹千代様は、3歳にして生みのお母さんとお別れになりました。

今川家の人質としての旅路

 わたしは、竹千代様が不憫でなりませんでした。真心込めてお世話しました。
 ところが、竹千代様6歳の時でした。今川義元様の命令で、人質として駿河に向かわねばならないことになりました。
 もちろん、わたしもこれに従いました。懐かしい岡崎の城を後にして、蒲郡街道を南へ、明大寺・戸崎・羽根を過ぎ、若松・坂崎・高力・芦谷・深溝を経て、蒲郡の港に着きました。
 坂崎や高力の村を過ぎる時には小姓として従っていた天野康景さんや平岩親吉さん、高力清長さんたちは頻(しき)りに我が家の方を振り返ってみえました。わたしも、懐かしい芦谷の村を過ぎる時には、我が家の方を見詰めました。

裏切りにより織田家の人質に

 薄郡の港を船出して、
 (やれやれ、これからは海路だ。歩かなくてもいい)
と、ほっとしたのも束の間、田原の港に着いた時のことでした。船は尾張の方に向かうではありませんか。田原の城主戸田康光が竹千代様を永楽銭百貫文で、尾張の織田信秀に売り渡してしまったのです。
 こうして竹千代様は、熱田の加藤家の屋敷で人質としての不安な日々を過ごされていました。
 弱り目に崇り目、本当に不幸せな竹千代様です。

竹千代様疱瘡罹患

 ある日のことです。竹千代様が、
「まつ、なにやら寒気がしてならん。それに熱もあるようだ。頭や腰が痛い」
と、おっしゃるではありませんか。
 「風邪ではないでしょうか。暖かくしてお休みなされては」
 そうお答えして、その日は早くお休みいただきました。
 ところがその明くる日、竹千代様のお顔を見て、びっくりしました。顔に赤い発疹が出ているではありませんか。
 ひょっとしたら庖瘡(天然痘)ではないだろうか?
 もう、びっくりしてしまいました。この赤い発疹は、顔から全身に広がり、高い熱が続くようになりました。
 間違いなく庖瘡です。その頃、疱瘡は恐ろしい病気でした。体力のない幼い子どもの命を次々と奪っていました。

まつの決心

 竹千代様は、岡崎殿にとってかけがいのないお方です。この大切な命、なんとしても、まつの命に代えてもお守りしなくてはなりません。わたしは、決心しました。
 「高力清長様、お小姓の方々、うつっては大変です。決してこの部屋に入らないように」
 わたしは、赤い着物を着て看病に当たりました。庖瘡の神は赤いものが嫌いだと聞いていたからです。そして、お米の研ぎ汁とお酒を混ぜて沸かした酒湯で竹千代様のお体を拭き清めました。
 竹千代様の赤い発疹は膿を持ち、水脹れとなり、全身に広がりました。
 「痛いよう、痛いよう」
と訴えられたかと思うと、次には昏々と眠りにつかれます。幾日も幾日も寝ずに看病を続けました。
 それとともに、「近くの熱田大社は疾病除けの霊験新たかな神様です。南無熱田大明神、どうか竹千代様の庖瘡を治し給え」
 「まつの命など少しも惜しくありません。どうか、まつの命に代えて竹千代様をお救いください」
などという看病と祈りの日々が幾日も幾日も続きました。まつの体力は日に日に衰えていきました。

竹千代様平癒

 とうとうその日がやってきました。
 「もういいでしょう。よく頑張られましたね。明日には風呂に入られてもいいでしょう」
というお医者様の言葉です。この言葉が聞こえた時、私の体の力は抜け、目の前が真っ暗になっていきました。
 まつは本当に幸せでした。武士の妻として、乳母として、悔いのない一生を送ることができたのですから。
 後の日、孫の正綱が、
 「『余が、尾張熱田において疱瘡に罹った時、お前の祖母は苦行を行って余の平癒を祈ってくれた。その霊験によって余は助けられた』と大御所様がおっしゃっていました」と墓前に報告に来てくれた時、(わたしのしたことは、德川家のお役に立ったのだ、あれでよかったのだ)と、わたしは我が身の幸せを感じました。