陣屋の歴史的価値

創建と修繕

 永正15年(1518)、内藤勝重(政重)が芦谷村を所領して移り住み、江戸時代を通じて内藤家が居住しているが、江戸時代中期に現在の主屋が建てられたと思われる。また、長屋門棟札によると、寛永元年(1626)に長屋門が再建されたという。

明治の増築

 明治期には主屋を2度、増築している。  芦谷内藤家十三代順治(勝政)が記した『明治元年ヨリ年々記ス農家作物景況及反物價扣帳』という雑記帳の明治11年(1678)12月の項に「裏ノ奥一間作ル」とある。これは主屋の西北隅8畳間(西側に押入れ、北側に縁側が付属する)の増築を指すものと考えられる。

 また、明治年間に「仏間」を含む3室を増築した。この時、増築のため主屋の西面を取り壊して仏間に繋げ、また、主屋の南側の下屋も仏間南側の下屋に含わせて作り直したことが部材の状況から推測される。

昭和の修理増築

 昭和20年(1945)1月13日の三河大地震では、この屋敷も揺れが大きかったが、被害は特になかったという。

 昭和34年(1959)9月26日の伊勢湾台風では、屋根のけらばや軒先の瓦、棟瓦の一部が吹き飛ぶ被害があった。その他にも塀や露地門が倒壊している。当時、被害に対して補助金が出たが瓦が手に入らず、すぐには修理できなかった。そのため、長屋門に仮住まいをしていたが、主屋で雨漏りがして部材の一部が腐食した。屋根の修理が終わったのは、その年の12月末で、壁土が凍ってエ事に手間がかかった。

 昭和35年頃には、出入りの便をよくするため、土間の大戸を撤去し、敷居を取り外したという。

 昭和39年頃、主屋東面の下屋と、東側に建っていた米蔵を壊して、住宅部分を増築した。東側に続いてあった井戸屋形は残したが、昭和30年頃に壊したという。しばらく井戸は露天であったが、その後、西側に繋げて井戸屋形を再建した。

平成12年の修理

 平成12年2月初めより6月末まで、母屋で半解体工事ともいえる修理を行っている。工事は西尾市の宮大エ杉浦社寺建築エ業が施工した。幸田町に提出した『事業実績書』及び当時、杉浦社寺建築工業で工事に携わった方の聞き取りによると、主に以下の部分の修理を行っている。
・屋根は野地板以上はすべて取り替え、垂木は一部を取り替えた。瓦もすべて取り替えた。
・柱は柱脚で腐食した数本はケヤキ材で金輪継きにより取り替えた。
・床組は床板以下、束まですべて取り外し、床板、縁板、束石は再用したが、それ以外はすべて取り替えた。地盤の不陸は特に問題なく、礎石はそのまま使用できた。
・桁、梁で一部、浸食の甚だしい箇所には、補強金具を取り付け、さらに間柱を建てた。
・棟木、母屋の小口付近の老朽化の激しい部分は、一部取り替えたり、添え木をいれた。
・二階部分の各所に火打梁を入れた。
・北東隅の部屋の床を撤去し、タタキとして土間を広げた。
・南側2階部分の3箇所の窓は板で覆われていたが、防水対策をして旧状に戻した。
・南側縁側を仕切っていた開き戸を撤去した。
・捩れによる傾きを修正した。

保存・修理

 江戸時代の改造、修理の記録は残っておらず不明だが、南側の上屋柱筋は痕跡、部材の状態から見ると比較的早い時期に改造されて、2間の柱間に改変されたようである。また、北側の下屋も壁の痕跡からみて大きく改変されているようである。西面、東面は明治から昭和にかけての3度の増築により当初の形をとどめていない。
 平成12年の修理により、屋根や柱、床組で腐朽・老朽化していた部分は取り替えられ、床下は礎石を除いてほとんど旧状が残っていない。瓦もすべて新調された。取り替え前の鬼瓦が一対保存されている。『事業実績書』によると、軒平瓦は使用されていたもっとも古い唐草文様のものを特別注文して幸田町野場の近藤瓦工業が施工した。
 このように主屋の外周部は改造され、床下、屋根は部材が取り替えられているが、中心部は建築当初の姿をよくとどめていると思われる。

復元

 間取りは架構や鴨居の状態から当初から四つ間取りであったと思われる。東側は下屋も含めて全面が土間で、聞き取りによると北寄りにかまどがあったという。
 「だいどころ」「おでい」の南側については下屋が造り変えられていることから、不明な点が多い。上屋柱の痕跡や平成12年の修理の時の写真からみると、1間ごとに柱が立っていたようである。上屋柱筋の現在の指物は後世に取り替えられ部材である。また、「だいどころ」「おでい」の上屋柱の南面に壁の痕跡があり、袖壁が付いていたと思われる。このことから、「だいどころ」か「おでい」のどちらかに式台があったと考えられるが、他の武家屋敷や庄屋の類例からみると「だいどころ」に式台があったと考えられる。
 「おでい」の西側は仏間を増築した時に壊されたが、北西隅の柱の南面に框、蹴込板の痕跡がある。対になる「おでい」の南西隅の柱は平成12年の改修の時に柱脚が取り替えらたため、痕跡は不明である。また、平成12年の修理の写真を見ると、「おでい」の西側境から半間出たところに土台が残っている。また内藤家の宗派は浄土宗深草派で、この地方の民家の間取りとして「おでい」の西側に仏壇を設けるのが一般的である。これらのことで、「おでい」の西側に仏壇があったと考えられる。
 「座敷」の西側は平成12年の改修の時に改修した。その時、天丼板に使われていた板を地板に転用しており、これには手斧仕上げがみられる。この地方の間取りもこの位置に床の間を設けることが一般的であり、当初はここに床の間があったと思われる。
 北側の下屋は改造されており、当初の姿を復元することは困難である。上屋柱、下屋柱の痕跡からみると上屋柱筋に壁があり、閉鎖的な作りであったようである。
 このように内藤家住宅の建築当初の間取りは四つ間取りで、式台、床の間を備えた武家住宅としての特徴を持った住宅であったと考えられる。

構造,材料

 構造の基本は上屋、下屋からなる形式である。桁受け、梁受けの上屋柱が2列に並び、中央には梁を継いで受ける中柱が立っている。上屋柱、中柱の途中の位置に梁をほぞ差しして、上屋梁は1本の細い材として折置組とする構造で、梁に束を立てて上屋梁を支えている。これは滋賀湖北から濃尾地方、西三河にかけて見られる鳥居建形式で、烏居建形式の分布範囲を知る上で重要である。ただし、梁が中柱で二分されている点や、小屋組が和小屋である点が一般的な鳥居建形式と異なる。
 また、「おでい」「座敷」の中央の梁筋だけは小屋組が登り梁形式となっている。これは屋根裏部屋を作るためで、当初からと思われる。
 柱は杉材が主であるが、栗材も一部に用いられている。桁と梁は松材である。その他、束や垂木などは杉材が使用されている。

建築年代

 内藤家には、江戸時代の主屋に関する記録や絵図は伝わっていない。意匠やエ法など以下の点からみて江戸時代後半の建築と考えられる。
・指物の使用が「おでい」「だいどころ」間、「おでい」「座敷」間、「おかって」「座敷」間と部分的であり、指物で柱を固める以前の古い形式が見られる。(上層民家への指物の普及は17世紀後半から始まり,1700年頃に本格化し,18世紀前半に完了したという)
・構造が鳥居建形式であること。(鳥居建て形式は17世紀初から18世紀中頃までに建てられた民家にみられる)
・北側の上屋柱は1間ごとに立ち、南側の上屋柱も1間ごとに立っていたと思われる。
・柱や大引などの一部に手斧仕上げが見られる。
・小屋組は改変された痕跡がなく、束を密に建てた和小屋であることから当初から桟瓦葺きであったと思われる。(桟瓦は延宝2年(1674)に近江大津の西村半兵衛が発明したといわれる)
・「おかって」「座敷」間の板戸の一番上の桟の位置が低く、古い形式が見られる。
 なお、昭和50年(1975)に愛知県教育委員会によって行われた民家調査をまとめた『愛知県民家緊急調査報告書』には、内藤邸について、根拠は書かれていないが、「主屋の建造年代は古く、17世紀末あたりには建造されていたとみている」と記述されている。

愛知県内の陣屋建築の中での評価

陣屋の各種形態

 近世の陣屋は、
  ①1万石以上3万石以下の無城主格の大名(陣屋大名)の城館
  ②大名の支藩の城館
  ③大名の飛地での代官所
  ④旗本(3,000石以上名寄旗本)の知行地での居館
  ⑤旗本(3,000石以下)の知行地での代官所
  ⑥天領の代官所
など様々な居所・役所として設置される。芦谷陣屋は⑤の旗本の知行地での代官所にあたる。
 規模は城館に匹敵するものから、名主・庄屋邸に併設された小規模なものまで多種多様である。『愛知県中世城館跡調査報告書Ⅲ(東三河地区)』所収の「新たな概念による近世陣屋の分類と三河の遺構」(木村哲男・松原宏昌)によると、陣屋は次のように分類される。
 ①設置陣屋型:陣屋の設置を目的に普請・作事された、いわゆる一般的な陣屋。中出城館を転用したり、村落、宿場内の中心地に設置されることもある。
 ②併設陣屋型:名主・庄屋邸に陣屋機能が併設された陣屋。式台や書院など、対面空間・実務空間といった書院建築の要素を有する。形態的および構造的に以下のように細分化が可能。
 A.独立併設型=名主・庄屋邸に主屋から独立した別棟の陣屋役所がある。
 B.連結併設型=名主・庄屋邸の主屋と陣屋役所が連結されている。
 C.複合併設型=名主・庄屋邸の主屋内に陣屋役所が複合して設置されている。
 芦谷陣屋は①設置陣屋型である。①設置陣屋型の立地、形態はさまざまで、調査・研究を期待されている分野であるが、芦谷陣屋はその中で集落の中心の平地に設置された小規模な陣屋といえる。

県内唯一、創建場所に残る陣屋

 愛知県教育委員会によって平成3年から12か年をかけておこなわれた愛知県中世城館跡分布調査により確認された三河地方の陣屋は、145箇所であるが、そのほとんどが滅失しているか、土塁などの遺構が残るのみである。その中で門や主屋など建築物が残るものもある。現在、主屋が残っていると確認されているのは、奥殿陣屋(岡崎市)、本宿陣屋(岡崎市)、国府陣屋(豊川市)、巨勢陣屋(豊川市)、半原陣屋(新城市)、清須代官所(清須市)である。
 しかし、すべて寺院や民家に移築されており、現地に残っているものはないようである(岡崎市の奥殿陣屋は一度、寺の庫裏として移築され、その後、再移築して現地に戻された)。芦谷内藤家住宅は愛知県内で唯一、建築当初の場所に残る陣屋建築と思われる。

総合評価

 芦谷陣屋内藤家住宅の建築年代は明確でないが、江戸時代後半に建てられたと考えられ、陣屋建築としては愛知県内で唯一、建築当初の場所にそのまま残るものとして貴重である。
 後世の改造により、式台など武家住宅の特徴を示すものは失われているが、鳥居建形式の構造や指物の使い方に古い形式を残している。敷地内には長屋門や土蔵、石積み、土塁、堀切などが残り、食い違いの通路があるなど、武家住宅の屋敷構えを伝える。また、屋敷林が周辺を囲っており、地域の景観を形作っている。以上により、芦谷陣屋内藤家住宅は登録有形文化財として「国土の歴史的景観に寄与しているもの」としての基準を備えており、文化財として保存すべき貴重な遺構といえる。

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