交遊録

德川恆孝公/德川宗家十八代目当主

 十六代目茂雄時に来訪
 平成28年(2016)11月19日、初代妻松の墓参のため来訪。

~新聞掲載記事~
德川宗家18代当主 家康の乳母をしのぶ
幸田の内藤家の墓前で合掌
 德川宗家十八代当主德川恒孝さん(七六)が十九日、德川家康の乳母「まつ」が眠る内藤家の墓(幸田町芦谷)を訪れ、祖先の乳母をしのんだ。
 まつは、内藤勝重の妻で天文十年(1541)に第一子を出産。同年に岡崎城で生まれた家康の乳母として召し出され、 二十五歳で自害している。
 恒孝さんの焼香時には雨が 一段と強まった。見守った内藤家十六代当主の茂雄さん(八六)は「恒孝さんの訪問は光栄で感激している。先祖も喜んだ上での”うれし涙”が雨となったのでは」と目を細めていた。
(平成28年11月20日 東海愛知新聞)

昭和15年(1940)~
德川宗家の当主。松平一郎の次男。学習院大学政経学部卒業。元日本郵船副社長。公益財団法人德川記念財団初代理事長。WWFジャパン代表理事。公益財団法人東京慈恵会会長。公益財団法人斯文会名誉会長。一般社団法人横浜港振興協会元会長。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校特別講演講師。公益財団法人日本美術刀剣保存協会名誉顧問。(ウィキペディアより)

李鍵公殿下/朝鮮王族

李鍵公殿下御座

 十四代目安種時に来訪
 李氏朝鮮の王家は明治43年(1910)、韓国併合の際、韓国皇帝を李王として設立され、日本の王族としての礼遇を受ける。李鍵公殿下はこの時の李王朝最後の皇太子李垠(ぎん)氏の甥にあたる方である。
 昭和5年(1930)5月20日、当時日本陸軍の将校として陸軍大演習に参加され、幸田村(現幸田町)通過の時、芦谷内藤家で御昼飯御休憩をとられた。

内藤耻叟/水戸藩士、幕末勤皇志士、帝国大学文科大学教授

 十三代目順治との交流あり。
 芦谷二代目内藤与左衛門重政(政直)の四男、半之丞政成の九代目当主で、維新後、しばしば芦谷内藤家を訪れ、書状も数十通ある。
 耻叟の死後、耻叟が詠んだ漢詩とともに肖像画が十代目の誠から贈られているが、その漢詩の読み下しは次のとおりである。

身は神聖の邦に生まれ、犬羊の群に入らず、
目は周孔の経を読み、蚊蠏(ぶんかい)の紛に眩(まど)はず、
耳は忠孝の義を聞き、祅邪(ようじゃ)の薫を受けず、口は忠孝の義を説き、
倫理の文を紊(みだ)さず、志や伸びずとも、心は則ち守るあり。
庶幾(こいねがわ)くば、下は先師に負(そむ)かず、上は先君に負かざらんことを。

文政9年(1826)~明治35年(1902)
明治時代の歴史家。水戸藩士、名は正直、字は王道、通称弥太夫、別号を碧海。水戸藩校弘道館に入り藤田東湖・会沢正志斎の影響を受ける。安政六年藩の内訌にからみ、隠居を命ぜられ耻叟と号す。慶應元年弘道館教授、維新後上京し、群馬県の中学校長をへて明治11年小石川区長、明治19年帝国大学文科大学教授、同22年陸軍教授となる。
東大文科・皇典講究所・斯文会で歴史を講じた。その学風は一貫して水戸学による尊王史観に立ち、明冶20年嚶鳴社系の新聞人島田三郎が彦根の「公用方秘録」などの資料により、安政の開国の経緯について事実に基づく叙述を行なった「開国始末」に対し、「安政紀事」を著わし、猛烈な攻撃を加えた。「德川十五代史」の著あり。年77で没。(明治維新の人々/古橋懐古館【豊田市稲武町】資料集第一より)

八橋方巌売茶翁/煎茶道家、売茶流二世

 十一代目政永と交流あり、芦谷陣屋に寄寓し、屋敷を「蘆荻(ろてき)庵」と命名し、揮毫を残す。


 宝暦9年(1759)~文政11年(1828)
 名は方巌。字は祖永、もう一つの字は曇煕、別号を自在菴、梅谷、通仙翁、売茶翁などと称した。初代売茶に私淑し、その遺風を学びとり煎茶道を極め、売茶流二世とうたわれた。
 筑前福岡藩士笠原四郎衛門勝富の三男として生まれる。
 長崎の黄檗宗崇福寺に入山。
 約十年間修行を積んだ後、天明6年(1786)都に上り、臨済宗妙心寺にて仏道を修行。
 売茶流初代が売茶流煎茶道を伝授し、印可を与えたという相国寺の大典禅師から売茶流煎茶道を修学。諸国巡歴後、寛政末(1796~7)頃、江戸上野東叡山寛永寺に近い梅谷にて、茶店を開き、江戸中の評判となる。
 文化2年(1805)、46歳の時、三河八橋にて庄屋から荒廃していた在原寺の再興を頼まれ、数年で在原寺を再興し、その後、無量寿寺を再興する。
 紀伊大納言治宝公が江戸より帰国の途中、無量寿寺を訪れたことがきっかけとなり、親交を深める。
 文政6年(1823)紀州和歌山へお礼のため参上の折、大納言親筆で通僊の名を賜り、以後、通僊翁と称する。
 日記兼随筆帳である「独健帳」が残されており、旅の様子や、宿泊先の人名、旅の句などが記されている。

初代妻松の実家 多門家

 多門氏は渡辺綱の末流といわれ、額田郡大門村に住み、大門と称していたが、のち多門と改め、大平村に住む。いわゆる岩津譜代である。松平信忠、清康に仕え、安祥城を守った多門重利の娘(松)は芦谷初代内藤勝重の妻であり、慶長17年(1613)旗本となった初代勝重の孫左七の妻は、松の甥である多門成正の娘である。
 ちなみに、元禄14年(1701)3月14日の播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩刃傷事件の時、事件の当事者浅野内匠頭長矩を取り調べ、その時の様子、並びにその後の経過の覚書「多門伝八郎覚書」を書き残した多門伝八郎重共は、松の甥(信清)の孫となる。
 なお、平成6年に、多門家に代々伝わる「変わり兜」を岡崎市に寄贈された多門信家の初代重倍は松の弟である。(平成6年7月13日朝日新聞朝刊記事)
 また、多門家一族の菩提寺は旗本内藤家と同じ浄土宗法正寺(新宿区岩戸町)で、多門家の墓はこの寺に現存している。

駒木根政方/長崎奉行

 三代目左七の妻の甥。芦谷村氏神への奉納の記録あり。
 政秀、長三郎、肥後守従五位下、千七百石、目付、長崎奉行、作事奉行、勘定奉行、大目付、留守居
 なお、元禄16年(1703)2月4日、久松松平隠岐守定直邸において、赤穂浪士大石主税良金はじめ10名切腹のとき、使番として検使役をつとめている。

 奉納
 右ノ志趣ハ内藤氏公、駒木根氏公ノ武運長久、御子孫繁昌、御氏子息災延命ノ所、繁栄五穀成熟、御護リ奉リ願フ者也
 時 延宝六戊未年(1678)正月吉祥日
 武州 江戸駒木根長三郎内辻仁右衛門尉
 (芦谷村氏神弥栄神社記録)